| 幼年期の想起 ─シャルル・ボードレールの『パリの憂愁』 Seibun Satow Aug, 31. 2006 「詩は悪魔の酒である」。 聖アウグスティヌス『アカデミー批判』 「──偽善の読者よ、──私の同類、──私の兄弟よ!」 シャルル・ボードレール『読者に』 1 癇癪 ―きみの最も愛する者は誰だ、さあ、謎の人よ、きみの父親か、母親か、姉妹かそれとも兄弟か? ―私には父も、母も、姉妹も、兄弟もない。 ―友人たちは? ―あなたの用いるその言葉の意味を、今日この日まで私は知らずにいる。 ―きみの祖国か? ―それがどんな緯度の下に位置するものやら、私は知らない。 ―では美女か? ―女神であり不滅のものであるのなら、よろこんで愛しもしようが。 ―黄金は? ―それを憎むこと、あなたがたが神を憎むにもひとしい。 ―なんだと!それではいったい、何を愛するのだ、世にも変った異邦人よ? ―私は雲を愛する……ほら、あそこを……あそこを……過ぎてゆく雲……すばらしい雲を! (「異邦人」)  そこにマーロン・ブランドがいる。彼は本を開き、それを朗読している。不機嫌そうな表情に、ふてぶてしい態度をとり、不明瞭な発音で、時折、癇癪を破裂させる。脂がしたたりそうな精悍な体躯を白いTシャツとブルー・ジーンに包み、エッジを効かせている。彼が手にしている本の表紙には、こう記されている。 Charles Baudelaire Le
  Spleen de   “Le
  Spleen de Paris”は、アルセーヌ・ウーセに寄せた序文と五〇篇の散文詩によって構成されたシャルル・ボードレール(一八二一─六七)の詩集である。彼の没後、一八六九年に刊行されている。その作品群には、一八五五年に制作された「夕べの薄明」と「孤独」から一八六七年の「ANY WHERE OUT OF THE WORLD  いずこなりとこの世の外へ」や「射撃場と墓地」に至る詩だけでなく、雑誌から掲載拒否された数編が含まれている。多くの作品には手が入れられ、いくばかりかの文献学的な問題を残している。   “Spleen”はギリシア語に由来し、本来、脾臓を指すが、転じて、癇癪や不機嫌、憂愁を意味する。かつてそうした感情が脾臓に宿ると考えられていたからである。  我が国では『巴里の憂鬱』という訳名が用いられて来たが、この〈憂鬱〉*1という言葉には、一種の大正期的、佐藤春夫的な匂いがするし、メランコリーの訳語にはふさわしいが、スプリーンの感じとは違うようなので、敢て〈憂愁〉と訳した。これは英語のSpleenをフランス語に借用したものであり、この英語には憂愁の意味の外に、不機嫌、癇癪等の意味もあるから、当然ボードレールはそれらを含めて、この言葉を使用したに違いない。尚、『悪の華』にも「スプリーン」と題した数篇の詩があり、この言葉を詩人が早くから愛していたことを示している。詩の場合でも、〈憂鬱〉よりは〈憂愁〉と訳す方が望ましいように思う。 (福永武彦「『パリの憂愁』解説的ノート」)  ボードレールは、この散文詩集のタイトルとして、一八五七年三月七日付オーギュスト・プーレ=マラシ宛書簡において、「僕は神秘的な題名か、あるいは癇癪玉的な題名を好む」と記している。それに従えば、邦題には『パリの憂鬱』や『パリの憂愁』以上に、『パリの癇癪』がふさわしい。  彼は「他人との関係などどうでもよく、自分ひとりで生きる道を選択したのであった」(ジャン=ポール・サルトル『ボードレール』)。 2 新しいパリとモデルニテ  彼には眼に入るもの、耳に届くもの、鼻をつくもの、肌に触れるもののすべてが気に入らない。いらいらしながら街を彷徨い続ける。諷刺、皮肉、冷笑、嫌悪、憤怒、絶望をわめき散らす。彼の癪に触るのは社会変化である。人々は変化に背を向けたり、楽観的に振舞ったりしている。そんな街全体に腹が立つ。  それは第二帝政のパリである。「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現れると言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番としてとつけくわえるのを忘れた」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)。ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンは、一八五一年一二月二日、クーデターによって議会を解散し、新たな憲法を制定した上で、国民投票によってフランス皇帝ナポレオン三世として即位する。六月蜂起後に保守・反動化したため。第二共和政の議会は民衆から失望され、反議会に傾いた民意をルイ・ナポレオン大統領はとりこむことに成功している。この第二帝政は権威主義的・反議会主義的な体制でありながら、国民投票を実施して幅広い層に支持基盤を置くポピュリズム的・民主主義的という二面性を持っている。そのナポレオン三世を支持したジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンは、皇帝より、パリ市を含むセーヌ県の知事に任命される。彼はパリの都市改造を推進する。一定の町並みは維持されたものの、パリの景観は変貌していく。  彼はそうした新しいパリを前にして、自然を賛美し、その一体感を告げるロマン主義の詩人のような態度はとらない。  秋の日暮れというものの、なんと身に沁みることだろう! ああ! 苦痛にいたるまで身に沁みる! なぜなら、漠としていることが強烈さの妨げとはならぬ、そういう類の甘美な感覚というものがあるからだ。そして、〈無限〉の切先にもまして鋭い切先はない。  大いなる愉楽ではある、空と海との涯しもない広さの中に視線を溺らす愉楽こそは! 孤独よ、沈黙よ、蒼穹の比類ない純潔さよ! 水平線上に戦き、そのちっぽけなさまと独りぼっちなさまによって、手の施しようもない私の実存を模倣している一艘の小さな帆船、波のうねりの単調な旋律、こうした物のすべては、私によって思考する、というか、私がこれらの物によって思考する(というのも、夢想の広大さの中では、自我はすみやかに消え失せるからだ!)。それらの物は思考する、といっても、音楽的に、絵画的に、理屈もこねず、三段論法も演繹法もなしに思考するのだ。  ところが、それらの思考は、私から発するにせよ物たちから飛び立つにせよ、やがてあまりにも強烈なものとなってしまう。逸楽に籠められた精力は、不快と、明確な苦しみとを創り出す。あまりにも張りつめた私の神経は、もはや甲高く痛々しい顫動としか発しない。  そして今では、空の深さが私を范然たらしめる。その透明さが私を苛立たせる。海の無感覚、光景の不易なることが、私を激昂させる……ああ! 永久に苦しまなければならないのか、それとも永久に美を遁れなければならないのか? 〈自然〉よ、憐れみなく魅惑するものよ、常に勝ちほこる競争相手よ、私を放してくれ! 私の欲望と矜恃をそそのかすことをやめよ!美の研究とは、芸術家が打ち負かされるに先立って恐怖の叫びを挙げる決闘である。 (「芸術家の〈告白の祈り〉」)   彼は意気揚々と快楽を告白する。しかし、しばらくすると、その快楽は苦痛へと変わる。不快や苦痛を吐露し始める。芸術家は、結局、自然に敗北を喫してしまう。だが、自然など嫌悪すべきものでしかない。何ということだ!  しかし、これはロマン派に対する素朴な転倒ではない。第二帝政下、産業振興や科学技術の開発、鉄道網の敷設、上下水道の整備、金融機関の育成、近代建築物の建設、万博などのイベントの開催といった近代化が進む。それは封建時代のアンチテーゼとしての近代ではない。産業化された近代が物質として顕在化している。彼はこうした近代性、すなわち「モデルニテ(modernité)」を問う。  しかし夕暮れがやってきた。空の幕が閉ざされ、都市に灯のともる、奇異で曖昧な時刻だ。ガス灯は夕日の緋色の上にしみをつける。廉直な者たちも、破廉恥な者たちも、正気の者たちも狂人たちも、人間はみな心に思う、「やれやれ一日が終わったぞ!」と。賢人たちもふしだらな者たちも快楽を思い、おのがじし忘却の杯を飲みほすべく、好みの場所へと駈けてゆくのだ。G氏はといえば、光が輝いたり、詩が鳴り響いたり、生がうごめいたり、音楽が顫えたりするような場所ならどこにでも、最後の一人になるまで残っているだろう。なにかの情熱が彼の目のためにポーズをとってくれるようないたるところ、自然の人間や慣習の人間が奇異な美しさの裡に現れ出でるようないたるところ、堕落した動物の速やかな歓喜を太陽が照らすようないたるところに!「なるほどこれは一日をうまく使っているが」と、われわれみなが知っているようなある種の読者が独り言いはなつ、「われわれの誰だって、一日を同様なやり方で満たすのに十分なくらいの天才はちゃんともち合わせているさ」と。とんでもない!見る能力を授かった人間はきわめて少ない。表現する力を所有する人間となれば、さらに少ない。さて今や、他の者たちは眠っている刻限、この男は自分のテーブルの上に身をかがめて、先ほど事物の上にそそいでいたのと同じ視線を一枚の紙の上にするどく投げ、鉛筆、ペン、あるいは絵筆を剣のように振い、グラスの水を天井に迸らせ、シャツでペンをぬぐい、まるで影像が自分から逃げて行くのを怖れているかのように、大急ぎで、いきおい激しく、活発に動き、一人でいながら喧嘩腰で、われとわが身を小突きまわしている。すると事物は、紙の上に、自然のかたちでまたそれ以上のものとなって、美しくもまた美しい以上のものとなって、特異なすがたに、作者の魂と同じように熱烈な生を吹き込まれて、生れ変る。魔術幻灯が自然から抽出されたのだ。記憶がいっぱいに背負いこんでいたすべての材料が、分類され、整理され、調和し合って、ああいう否応なしの理想化、一種子供的な幻覚、すなわち純真さがきわまって鋭敏となり魔術的となった知覚の結果であるような理想化を蒙るのだ! (ボードレール『現代生活の画家』)  第二帝政を含む一九世紀はブルジョアの世紀と呼ぶことができる。ブルジョアは俗物であり、古典的教養を持ち合わせていない。理解できないものは排除する画一的なブルジョアの社会は、経済的には活況を呈しながらも、政治的には保守的で、表現の自由などお呼びではない。新たに発達した新聞や雑誌といった商業出版産業も、ブルジョア読者の顔色を伺い、率先して追放する対象を探し回る有様だ。彼の『悪の華(Les
  Fleurs du mal)』(一八五七)は当局の検閲によってではなく、『ル・フィガロ』紙の非難記事から公序良俗に反すると訴えられたくらいである。過剰な言論統制がまかり通っている。  そこで彼が描き出した倦怠や癇癪は、勤勉や中庸を美徳とするブルジョア道徳に反しているかに見える。しかし、その悪徳はまさにブルジョア社会の偽善が招いたものである。ブルジョアは悪徳の共犯者である。  偽善的で無教養なブルジョアのために、誰かが反抗的で、挑戦的、攻撃的な新しい芸術の意味を伝えなければならない。そこで批評家が必要となる。  何の役に立つか? ──批評が第一章に第一歩を踏み出そうとするや否やその襟首をつかまえる、遠大にして恐るべき疑問符だ。芸術家はまず、批評に対して、絵を描くことも韻文を作ることも願ってはいないブルジョアに何も教えることはできないと言って非難するし、芸術に対しても──その腹の中から批評は出て来たのだからして──何も教えることはできない、と言って非難する。──私が心底から信ずるところ、最上の批評とは、面白くて詩的な批評のことである。ああいった、冷静で代数的で、すべてを説明し尽くすという口実の下に、憎しみをも愛情をも持たず、およそ気質と名のつくようなものは自発的に脱ぎ捨ててしまう体の批評ではない。そうではなくて-──一枚の美しい絵とは一人の芸術家によって反射された自然なのであるからして──この絵がさらにまた一人の聡明で感受性ある精神によって反射されたものである。従って、一枚の絵の最上の解説は、一篇の十四行詩あるいは悲歌であり得るだろう。 (ボードレール『一八四六年のサロン』)  近代化には神の死によって可能になる。身分に縛られず、職に就き、商品・サービスを売買し、移動できなければ、資本主義は発達することが難しい。封建的な身分制を支えた神は死んでもらうほかない。才覚と運があれば、卑しい生まれだとしても、金持ちになれる。地位だって、名誉だって、買うことができる。そんなおいしい社会をふいにして、神の時代に戻りたいわけがない。ブルジョアは神を信じているというポーズをとりながら、その裏で神を殺す悪徳に手を染めている。  神の死=モデルニテにおいて、パトロンを失い、芸術家は宣伝に奔走する。権威の死と共に、芸術は根拠を失い、審美主義者は「芸術のための芸術(Art for Art's Sake)」、すなわち美自身によって、美を基礎づける発想を唱え始める。芸術はニヒリズムの極限を進めるほかない。このニヒリズムにおける芸術について、浸透しつつある商業出版を通じて、一般に解き明かす専門職が誕生する。それが批評家である。  彼は、二〇代半ばに、美術批評家としてデビューしている。それはモデルニテにふさわしい文学者の出発点である。 3 ダンディとスノッブ  こうした時代風潮に対し、ウジェーヌ・ドラクロワのような画家は「ダンディ(dandy)」を標榜する。『現代生活の画家(Le Peintre de la
  vie moderne)』(一八六三)によると、ダンディは精神主義や禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱狂」であって、「民主政がまだ全能ではなく、貴族政がまだ部分的にしか動揺し堕落してはいないような、過渡期にあらわれ」、「デカダンス頽廃期における英雄主義の最後の輝き」である。  そのダンディが嫌悪するのはブルジョア的な「スノッブ(snob)」である。一九世紀の半ば、イギリスの小説家ウィリアム・メイクピース・サッカレーの作品を通じてその言葉が普及したように、スノビズムは神の死と共に出現している。スノッブは、鈴木道彦の『プルーストを読む』によると、「一つの階層、サロン、グループに受け入れられ、そこに溶けこむことを求めながら、その環境から閉め出されている者たちに対するけちな優越感にひたる人々」である。世間体ばかりを気にするブルジョアはこのスノッブの典型である。  けれども、ドラクロアを賞賛しつつも、阿部良雄の『群衆の中の芸術家』によると、彼はダンディを自称することはない。貴族政が完全に後退した社会において、スノビズムがあまりに凡庸であったとしても、「後光の紛失」した時代である近代に、ダンディズムは陳腐なアナクロニズムにすぎない。そういったダンディズムを目指すこと自体が凡庸なスノビズムである。モデルニテの浸透した民主政は貴族政のアンチテーゼではない。ダンディ対スノッブという素朴な図式はいささか古臭い。 4 群衆  確かに、詩人は、ダンディと同じように、時代に対して不機嫌さを隠そうとしない。  新年のお祭り騒ぎだった。数知れぬ馬車の駆けぬける泥と雪の混沌のなかに、玩具やボンボンがきらめき、貪欲と絶望が蠢いて、大都市の天下御免の錯乱ぶりは、この上もなくしっかりした孤独者の脳髄さえ狂わせぬばかり。  この雑沓と喧騒のまっただなかを、一頭の驢馬が、鞭で武装した無作法者に責め立てられて、勢いよく駆けていた。  驢馬が、とある歩道の角を曲がろうとした時、手袋をはめ、ぴかぴかにめかし込んで、痛いほどネクタイを締め上げ、おろし立ての服に身を封じこめた、立派な紳士が、つつましい動物の前に仰々しく身をかがめると、帽子をぬいで、「どうかあなたもよい仕合せなお年を!」と驢馬に言いざま、友だちらしい連中の方へ自惚れ顔で振り向いて、自分の満足に賛成の上塗りをしてくれと言いたげだった。  驢馬はこのしゃれた剽軽者などに目にも入らず、己の義務の導く方へと、一生懸命に走り続けた。  私はといえば、突然この堂々たる馬鹿ものに対して量り知れぬ憤怒をおぼえたが、この男こそ、フランスの才智の一切をその身に集めた者と、私には思われたのだ。 (「剽軽者」)    ダンディを気どりながらも、スノッブ以外の何ものでもないこの「剽軽者」に対し、その愚かさのため、詩人は怒りを覚える。けれども、彼はふとこの愚か者こそ「フランスの才智の一切をその身に集めた者」ではないかと思い立つ。この馬鹿は犬儒学派のディオゲネスを思い起こさせる。こうしたシニシズムは一つの諷刺であり、自分自身の「癇癪」とその愚かさは表裏一体である。  なんという素晴らしい日だろう! 広々とした庭園は、〈愛の神〉の支配下の青春さながら、太陽の燃える眼の下にうっとりとしている。  物という物にあまねく行きわたった恍惚は、自らを表現するそよとの音をも立てはしない。水さえも眠り込んだかのようだ。人間たちの祝祭とはまるで違って、ここにあるのは沈黙の饗宴だ。  明るさを増してやまぬ光が、すべての物を弥増しに煌かせる、とでも言おうか。刺戟された花々はその色彩の精力によって空の紺碧と競う望みに燃え立ち、また、熱気はもろもろの香りを目に見えるものにして煙さながら太陽の方へと立ちのぼらせている、とでも言おうか。  ところが、物みながこうして楽しみにふけっているその中に、悲しんでいる者が一人私の目にとまった。  巨大なウェヌス像の足もとに、あれら人工の痴呆の一人、王たちが〈悔恨〉や〈倦怠〉に憑きまとわるとき笑わせる役を進んで引き受けた、あれらの道化の一人が、きらびやかで可笑しな衣装を着こんで、角や鈴の付いた帽子をかぶり、台座に身を寄せすっかり縮こまって、涙でいっぱいの眼を不死なる〈女神〉の方へ挙げているのだ。  そしてその眼は語るのだ――「私こそは人間の中で最下等の者、最も孤独な者、愛情にも友情にもめぐまれず、その点で最も不完全な動物にさえはるかに劣る者でございます。とは言え、この私とても、不死なる〈美〉を理解し、また感じるように生まれついているのです! おお! 〈女神〉よ! 私の悲しみと私の錯乱をお憐れみ下さいませ!」と。  だが非常冷酷なウェヌスは大理石の眼を遠方に向けて、何を眺めているとも知れない。 (「道化とウェヌス」)  彼は、「英雄的な死」において、退屈する王の機嫌をとる道化を描き、その一方でモデルニテにおける道化が従順な慰み者ではないことを書く。彼は、『笑いの本質(De
  l'essence du rire)』(一八五八)において、「有意義的滑稽」と「絶対的滑稽」という対立を提示している。前者は人間の振る舞いによって引き起される通常の笑いであり、後者はグロテスクさによって沸き起こる深遠で原始的な笑いである。この種のブラック・ユーモアは、「無能なガラス屋」で描かれる悪ふざけのように、散文詩に顕著に見られる。この笑いは彼をダンディではなく、新しい時代の住人であることを示している。  『一八四六年のサロン(Salon
  de 1846)』(一八六八)によると、芸術家は過去の神話ばかりをテーマにしてきたが、それはもはや「頽廃」にすぎない。近代都市の中にも、聖書やギリシア=ローマ神話に匹敵するような主題がある。と言うよりも、古代の偉大な神話の英雄も同時代のブルジョア社会を生きる人たちとさほど違いがない。  パリのような近代都市には人が溢れかえっている。その中では英雄も、ダンディも、スノッブも見分けがつかない。一つの群れ、すなわち「群衆」の一人でしかないからだ  エドガー・アラン・ポーは小説『群集の人(The
  Man of the Crowd)』(一八五〇)をいち早く執筆し、群衆が近代の象徴であり、その生活様式にほかならないことを明らかにしている。彼らは結果として群れているのではない。群れること自身に目的がある。  その愛読者も、早速、この新しい存在である群衆について書かずにはいられない。  群衆に沐浴みするというのは、誰にでもできる業ではない。群衆を楽しむことは一つの術である。そして人類をうまく利用して生命力を大いに飲み食いできるのは、ただひとり、揺藍にあった時、仙女から、仮装や仮面への好みや、己が棲処への憎悪や、旅への情熱を吹きこまれた者のみだ。  群衆、孤独。活動的で多様な詩人にとって、たがいに等しく、置き換えることの可能な語。己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、忙しい群衆の中にあって独りでいる術をも知らない。  詩人は、思いのままに自分自身でもあり他者でもあることができるという、この比類ない特権を享けている。一個の身体を求めてさまようあれらの霊魂たちと同じように、詩人は、欲する時に、どんな人物の中へでも入ってゆく。彼にとってだけは、すべてが空席なのだ。そして、ある種の場所が彼に閉ざされているように見えるとすれば、とりもなおさず、彼の目から見て訪れるに値しないものであるからだ。  孤独にして思索を好む散歩者は、この普遍的な融合から、一種独特な陶酔を引き出す。群衆とたやすく結婚する者は、金庫のように閉ざされたエゴイストや、軟体動物のように殻に閉じこもった怠け者などには永久に与えられことのないような、熱烈な享楽を識るのである。彼は、めぐり合わせが提示してくれる職業のすべて、歓びのすべて、悲惨のすべてを、自らのものとして受け容れる。  人間が愛と名づけるものは、この筆舌につくしがたい饗宴、すなわち、詩となり隣人愛となった魂が、目の前に姿を現す思いがけぬもの、通りかかる未知のものに、己をすべてを与えつくす、この神政な売淫に比べれば、まことに小さく、まことに限られており、まことに弱い。  この世の幸福な人々に、彼らの幸福に優る幸福、より広大でより洗練された幸福があると、時おり教えてやるのは良いことだ、たとえ彼らの愚かな誇りを一瞬辱めることにしかならないにせよ。植民地を築く人々や、民族を牧する人々、世界の涯に流調の身の宣教師たちはきっと、こうした不可思議な陶酔について何ほどか知るところがあるだろう。そして、彼らの天才が自らのために作り上げた巨大な家族のさなかにあって、これらの人々は、かくも波瀾多き彼らの運命やかくも純潔な彼らの生活のゆえに彼らを気の毒がる者たちのことを、時おり笑っているに違いないのだ。 (「群衆」)  彼にとっての群衆は、ヴァルター・ベンヤミンが指摘する通り、新しいパリの住人を指している。欧州の都市の中で、人口が一〇〇万人を越える大都市は二〇世紀初頭でさえロンドンやパリ、ベルリン程度である。ポーが直面していたアメリカの人口密集とは比較にならない。けれども、パリの群衆はアメリカの群衆と共通点がある。  群衆は近代化=工業化の産物である。農村の余剰人口を都市が吸収して、産業化が促進される以上、都市の人口増加はそのバロメーターの一つと考えられる。一九世紀に起きた農業革命は慢性的だった欧州の食糧難を解決する。フランスの労働人口に占める農業従事者の比率は一八二〇年が七五%であったのに対し、一八七〇年には四九%にまで低下している。また、農村人口と都市人口のパーセンテージは、一八五一年に七五対二五であったけれども、一八八六年になると、六四対三六に変化している。  欧州は、主要穀物として、小麦を栽培してきたが、小麦は連作ができない。最初は、耕地の半分を休耕地とし、飼っている牛や羊にそこで運をさせ、地力を回復させる二圃制が一般的だったが、一〇世紀から一一世紀頃に、全耕地を春耕地・秋耕地・休耕地に三分する三年ローテーションの三圃制が普及している。  ヨーロッパの食事にパンと乳製品の組み合わせが見られるのは、こうした事情によるところが大きい。  一九世紀初頭に、豆類と一緒に栽培すると、休ませなくてよいことが発見される。後に、豆の根についている根粒バクテリアが窒素を供給してくれるからだということが解明されている。  植物には窒素が不可欠だが、それをアンモニアとしてとりこんで、用いている。しかし、窒素は大気中の成分の七八%を占めていても、三重結合をしているため、窒素分子は非常に強く結合している。その結合を解き、窒素固定をしなければならないが、これは微生物にしかできない。  この農法の発見により、ヨーロッパの食糧事情は劇的に改善する。食糧の増産に伴い、人口も増えていく。  都市化の進展は、産業革命を通じて、経済生産や社会生活を大きく変える。農業中心の経済から工業を要とした産業構造に基づく経済システムへと転換する。不況は農業生産物の不作ではなく、工業製品や設備投資の過剰によって起きる。飢饉と餓死に代わり、倒産と失業という新たな危機が人々を苦しめるようになっていく。  ただし、フランスは、他の欧州諸国と比べて、工業化の変化が緩慢である。近代は量の時代であり、人口は国力の目安の一つである。欧州は、一九世紀の一〇〇年間を通じて、全人口が約一億八〇〇〇万人から四億二〇〇〇万人へ増加している。ヨーロッパにおいて、国勢調査を通じて人口が把握されるのは一九世紀後半になってからであり、一九世紀初頭のデータはあくまで推定である。しかし、フランスでは、一九世紀以来、すでに少子化が始まり、高齢化の傾向も現れる。人口の伸び悩みは国力の低下につながると懸念され、政治問題化している。産業の高次化を進めようにも、労働人口が不足し、フランスはベルギーやイタリア、スペインなどの周辺諸国から移民を受け入れるようになる。フランスは、程度の差はあるものの、合衆国同様、移民の国であり、パリの群衆には多くの移民が含まれている。  移民によってフランスは工業化を達成するが、それは移民排撃の始まりでもある。既存の労働者は、移民が労働争議の際にスト破りに使われる、あるいは賃下げの口実に利用されるという理由で移民の導入に反対する。それどころか、実際に、移民が襲撃されることさえ少なくない。  群衆の中で、過剰な価値観が暴力的に衝突し、融合していく。聞こえてくるのは、アカデミー・フランセーズが認めるようなフランス語ではない。お国言葉や外国語訛のフランス語、あるいはまったくの異国の言語が飛び交っている。お互いに癇癪を爆発させている。こうした過剰さを語るのにダンディではあまりに高踏しすぎている。 5 散文詩  近代以前が欠乏の社会だったのに対し、近代資本主義は過剰をもたらしている。豊かさとは過剰さであり、群衆は過剰さの現われである。詩人は群衆の中で癇癪を破裂させる。と同時に、彼の癇癪はもう一つの過剰さによっても引き起こされる。保守的なブルジョアは表現へ過度な規制を当然視する彼にはそれに我慢がならない。癇癪は過剰の感情にほかならない。この散文詩集のタイトルはパリに満ち溢れる過剰さを意味している。  こうした群衆の時代を従来からの韻律詩で表現することはできない。新たな表現形式が不可欠だ。フランスにおける伝統的な詩の定型は八音綴もしくは一二音綴の脚韻を踏む。ロマン主義以降、この制約は崩れていく。しかし、ロマン派の頃以上に過剰さや不調和が溢れる世界を節度ある調和的な形式で描写することは背理である。  しかも、近代は神の死であり、それは詩の死を意味する。近代以前、世界各地で、詩は文学の頂点に君臨し、神の文学である。詩によって近代を捉えるのは、そもそも奇妙な試みである。貴族政から民主政へと文学も移行する必要がある。神の死により、民主政の為政者は超越的な神ではなく、自らを憲法という散文によって律しなければならない。近代は散文精神の時代である。  彼は、そこで、散文による詩、すなわち「散文詩(poème en
  prose)」を書き始める。  人間はひょっとすると不幸なものだ、幸いなるかな、欲望に身に虐まれる芸術家こそ!  私の前にかくも稀にのみ姿を現したあの女、そして、あたかも夜の中を運ばれてゆく旅行者の背後へと遁れ去る、名残り惜しくも美しい物のように、かくも速やかに遁れ去ったあの女を描きたい思いに、私身を焦がす。あの女が姿を消してからすでになんと久しいことだろう!  彼女は美しい、いや、美しいという以上だ。彼女は人を面食らわせる。彼女の中には黒い色が溢れている。そして彼女の喚びさます思いはすべて夜に似て奥深い。彼女の眼は神秘の漠と煌めく二つの洞窟、そして彼女の眼差は稲妻のように照す。それは暗闇の中の爆発だ。  私は彼女を、黒い太陽に譬えよう、もしも光と幸せとを注ぐ黒い天体というものが考えられ得るのならば。だがそれよりも、彼女を見て月を思う方がいっそう自然だ、疑いもなく、その怖るべき影響の刻印を彼女の上に残した月を。と言っても、冷やかな花嫁に似た、牧歌の白い月ではなく、雷雨をはらんだ夜の底に吊るされて、走りゆく雲に小突きまわされる、不吉な、心酔わせる月だ。清らかな人々の眠りを訪れる穏やかでつつましい月ではなく、空からもぎ取られて、おびえ戦く草の上でテッサリアの〈魔女たち〉に手荒く踊りを強いられる、打ちひしがれ苛立った月だ!  彼女の小さな額には、頑強な意志と、餌食をつよく求める心が宿っている。ところが、この不気味な顔、うごめく鼻孔が未知なるものと不可能なるものを吸いこんでいるこの顔の下の方には、火山地に奇蹟さながら咲き出た壮麗な一輪の花を思わせる、赤と白との、甘美な大きな口の笑みが筆舌に尽くしがたい優雅さを見せながらほころびている。  彼女たちを征服したい、享受したいという欲求を喚びさます女たちもある。だがこの女は、その眼差しの下でゆっくりと死んでゆきたい欲望をいだかせる。 (「描きたい欲望」)   散文詩を通じて、散文とは何かあるいは詩とは何か、詩と散文の境界は何かと問うのは歴史性が十分とは言えない。散文詩は近代という過剰さがもたらしたものだからだ。散文詩は過剰な言葉によって詩を不況に追いこむ。詩人にはありとあらゆることを描きたいという過剰な欲望がある。そのため、散文詩は寓話に接近する。彼は、「野蛮な女と伊達女」のように、ラ・ファンテーヌの寓話をモチーフとした散文詩を書いている。フランツ・カフカの短編小説が彼の散文詩の継承である。  彼は、「どっちが本当の彼女か?」ではエドガー・アラン・ポーの詩をパロディ化しているように、既存の作品を巧みに用いている。同様に、散文詩という形式自身は彼の発明ではない。ただ、韻文に散文をさしはさむことはヴィクトル・ユゴーやテオフル・ゴーチェが試みているし、彼も試行している。意識的な散文詩はアロイジウス・ベルトラン(Louis Aloysius Bertrand)が『夜のガスパール(Gaspard
  de la nuit)』(一八四二)を発表している。この六四編の散文詩集は彼に影響を与えている。  しかし、両者は異なっている。ベルトランが幽霊や悪魔などを扱いながらも、色彩豊かな描写に徹しているのに対し、彼は爆発音を響かせている。それはモンゴメリー・クリフトとマーロン・ブランドの演技ほどの違いがある。  従来、『パリの憂愁』は『悪の華』の補完的書物と見なされることが多かったが、彼にとって、散文詩こそ最も表現としてふさわしい形式である。『悪の華』の作品群を発展させたのが散文詩にほかならない。過剰さを表現するには散文詩が最も適している。群衆は都市の中でさまざまに交錯する。それを描くには散文詩しかない。  この詩集に収録された散文詩は書下ろしではない。すでに文芸誌に発表された作品をまとめたものである。これは新しい詩集の出版形式であり、現在でも主流となっている。雑誌はさまざまな作品や記事が入り混じる群れの媒体であり、単行本から雑誌へと発表の中心が移るのは時代の流れに沿っている。  一九五〇年代のアメリカの若者がマーロン・ブランドを求めたのも、第二帝政同様、過剰さに支配されていたからである。未曾有の「ゆたかな社会(The Affluent Society)」(ジョン・K・ガルブレイス)である一方で、マッカーシズムの嵐が吹き荒れ、表現は著しく制限される。極端な物質主義と極端なジンゴイズムが共存する。パックス・アメリカーナは過剰さに覆われている。デイヴィッド・リースマンはそんな社会の人々を「孤独な群衆(The Lonely Crowd)」と呼んでいるが、それは彼の散文詩「群衆」で描かれた群衆そのものである。若者は、鬱憤を晴らすように、癇の強いマーロン・ブランドの真似をする。  彼は、マ−ロン・ブランドが一九五〇年代以降の演技においてそうであったように、近代詩の源泉となる。ステファヌ・マルラメはボードレールの意義を最も踏まえた詩人の一人である。彼は散文詩を発展させ、文学そのものの根拠を問う批評精神に基づき、「批評詩(le Poème
  critique)」、ないしは「批評詩編(les poèmes critiques)」を考案する。こうした詩と批評を一体化させる試みは卓見である。  ただ、マラルメは過剰さではなく、余白によって散文詩を生かそうとしている。それは、確かに、散文詩のその後を暗示している試みである。  ボードレールの死後、一八八〇年代以降、定型詩の脚韻や音綴の規則を放棄した自由詩が主流になっていく。過剰による不況を手なずけるため、自由詩が選ばれる。 6 意のままに再び見出された幼年期  フランスの詩人ジャン・モレアス(Jean Moréas)は『象徴主義宣言(Manifeste
  du symbolisme)』(一八八六)を発表し、彼を象徴主義の先駆的な詩人と見なしている。これは、元々、一八八六年九月一八日付『フィガロ・リテレール』紙に掲載されたジャン・モレアスの記事「象徴主義(Le
  symbolisme)」であるが、見出しに「ある文学的宣言(Un
  manifeste littéraire)」と付けられたため、慣例となっている。ただ、その定義は明確ではない。彼によると、文学はロマン派から高踏派と円環的に進化してきたが、次に登場した同時代的文学潮流が象徴主義である。それは「イデー(Idée)」に感覚的形態を付与し、事物と「根源的イデー(Idées primordiales)」の神秘的な親近性を顕在化させる。象徴主義は不可知なもの、あるいはまだ見ぬものを表現する文学運動ということになる。  彼はまだ見ぬ近代の先さえ表現しようとする。「天才」は、『現代生活の画家』によると、「意のままに再び見出された幼年期」である。それはモデルニテの克服にほかならない。  彼のある種の後継者であるフリードリヒ・ニーチェはその点を明確にしている。散文詩『ツァラトゥストゥラはかく語りき(Also
  Sprach Zarathustr)』(一八八五)において、神の死を説き、それに伴う精神の三段の変化を述べている。近代以前、神の時代の精神は「駱駝」であり、神なき時代の精神は「獅子」である。その後に訪れる「超人」の精神は「幼子」にほかならない。  彼はこの超人の時代を見据えている。けれども、幼年期が芸術の源泉であるとしても、それ自身がモデルニテの超克になるわけではない。  いつも酔っていなければならない。一切はそこにあり、それこそが唯一の問題だ。あなたの両肩を押しくだき、あなたを地面へと圧し迫める、〈時間〉の厭わしい重荷を感じないために、休みなく酔っていなければならない。  だが何に? 葡萄酒に、詩に、あるいは美徳に、あなたの好むがままに。だが酔いたまえ。  そして、もしも時たま、とある宮殿の階の上で、とある濠の縁の草の上で、あなたの部屋の陰気な孤独のなかで、統帥がすでに衰えもしくは消え失せて、あなたが目覚めるならば、説いたまえ、風に、波に、星に、鳥に、大時計に、逃げゆくすべてのものに、嘆息するすべてのものに、流転するすべてのものに、唄うすべてのものに、口をきくすべてのものに、問いたまえ、いま何時であるかと。すると風は、波は、星は、鳥は、大時計は、あなたに答えるだろう、「酔うべき時刻だ! 〈時間〉に虐げられる奴隷とならないために、酔いたまえ、絶えず酔いたまえ! 葡萄酒に、詩に、あるいは美徳に、あなたの好むがままに」と。 (「酔いたまえ」)   覚醒するために酩酊するのであって、酔い自身に興味があるわけではない。同様に、芸術も幼年期そのものではなく、想起される幼年期に基づいている。思い起こすのが困難であればあるほど、それを意のままに再び見出すことは芸術を生み出すことにつながる。  この生は、病人のめいめいが寝台を代えたい欲望に取り憑かれている、一個の病院だ。せめてストーブの正面で苦しみたいと思っている者もあれば、窓のそばなら癒るだろうと思っている者もある。  私は、今いるのでない場所へ行けば、かならず具合がよくなるだろうという気がするのであり、この引越しの問題は、私が絶えず自分の魂を相手に議論する問題の一つである。  「答えてくれ、わが魂よ、冷えてしまった哀れな魂よ、リスボンに住むのはどうだと思うかね? 陽気はきっと暖かだし、君もそこなら蜥蜴のように精気撥剌としてくるだろう。この都市は水のほとりにある。大理石で建てられていて、住民は植物を忌みきらうことははなだらしく、あらゆる樹木を引きぬいてしまうとか言うことだ。これこそ君の好みに適う風景ではないか。光と鉱物と、それを映すために液体、それだけで出来た風景!」  私の魂は答えない。  「きみは、運動するものを眺めながら休息するのが大好きだから、オランダへ行って住みたくはないか、人を浄福につつむあの土地へ? きみがよく美術館でその画像を見て感嘆したこの国でなら、ひょっとしてきみも気晴らしができるだろう。帆柱の森や、家々の足もとに繋がれた船などの好きなきみは、ロッテルダムはどう思うかね?」  私の魂は無言のままだ。  「バタヴィアの方がひょっとしてもっときみの気に入るだろうか? それともあそこでは、ヨーロッパの精神が熱帯の美しさと結び合っているのが見られるだろうし」  一言も返ってこない。――私の魂は死んだのだろうか?  「するときみは、きみの病の中でしか居心地よく感じないほどに、麻痺し果ててしまったのか? いっそそれなら、〈死〉の類縁物である国々へ逃げて行こうではないか。――話は決まった、あわれな魂よ! 荷造りをして、トルネオへ旅立つとしよう。もっと遠く、バルティック海の最果てへ行こう。できることなら、生を離れることさらに遠いところへ。極地に住みつこうではないか。そこでは太陽は斜めにしか地を掠めず、光と夜の緩慢な交代は変化を抹殺し、虚無の半分ともいうべきもの、単調さを増大させる。かの地でわれわれは、闇黒の長い沐浴にひたることができるだろう、そしてその間、われわれの気晴しのために、北極光は時おり、〈地獄〉の花火の反映のような、その薔薇色の光の束を投げてよこすだろう!」  ついに、私の魂は爆発し、そして賢明にも私にこう叫ぶ、「いずこなりと! いずこなりと! この世の外でありさえすれば!」 (「ANY WHERE OUT OF THE WORLD  いずこなりとこの世の外へ」)  この対位法の詩は冒頭の「異邦人」の変奏曲である。詩人は彷徨った後、最初の記憶、すなわちこの詩集における幼年期を再び見出す。それは天才のなせる技にほかならない。  彼は脳軟化症により失語症となり、幼年期のように、二、三の単語を伝えられる以外外は、ただ反応するだけになってしまう。経済的にも困窮した彼だったが、入院した病室には、友人たちが見舞いに訪れる。人の区別もできなくなり、「痴呆の翼が頭上を羽ばたき」(ジュル・ベルトゥ=アルフォンス・セシェ『ボードレールの生涯』)、一八六七年八月三一日、彼は「この世の外」に出て行く。  その時、彼の頭脳を熟する太陽の下、〈死〉の強烈な香りのつくる雰囲気の中で、彼の耳にしたものは、腰掛けている墓石の下に囁く一つの声だった。そしてその声はこう言った、「汝らの標的とカービン銃も呪われてあれ、死者たちとその神聖な休息とを顧みることのかくもすくない、騒々しい生者たちよ! 汝らの野心は呪われてあれ、汝らの打算も呪われてあれ、〈死〉の聖域のかたわらに来ては殺す技を究めようとする、心焦れる人間どもよ! もしも汝らにして、賞を得ることのいかに易く、的を射ることのいかに易く、また〈死〉を除いては一切のいかばかり虚無であるかを知るならば、孜々営々たる生者たちよ、汝らもかくばかり己が身を労しはせぬであろうし、久しい前から〈的〉を、厭うべき人生の唯一の真の的を射当てた者たちの眠りを、かくもしばしば乱しはせぬであろうに!」と。 (「射撃場と墓地」)  そして、彼の詩をわれわれの幼年期として再び見出そうとしている。 〈了〉 参考文献 シャルル・ボードレール、『パリの憂愁』、福永武彦訳、岩波文庫、一九六六年 シャルル・ボードレール、『ボードレール全集』W、阿部良雄訳、筑摩書房、一九八七年 シャルル・ボードレール、『ボードレール全詩集』U、阿部良雄訳、ちくま文庫、一九九八年 シャルル・ボードレール、『ボードレール批評』T〜W、阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、一九九九年 阿部良雄、『群衆の中の芸術家 ボードレールと十九世紀フランス絵画』、中公文庫、一九九一年 阿部良雄、『シャルル・ボードレール 現代性の成立』、河出書房新社、一九九五年 河盛好蔵、『パリの憂愁 ボードレールとその時代』、河出書房新社、一九九一年 鈴木道彦、『プルーストを読む―「失われた時を求めて」の世界』、集英社新書、二〇〇二年 出口裕弘、『フランス第二帝政の詩人たち ボードレール・ロートレアモン・ランボー』、河出書房新社、一九九九年 福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、二〇〇五年 福永武彦、『ボードレールの世界』、講談社文芸文庫、一九八九年 渡邊守章=柏倉康夫=石井洋二郎、『フランス文学』、放送大学教育振興会、二〇〇三年 渡辺広士、『シャルル・ボードレール 近代の寓意』、小沢書店、一九八六年 デイヴィッド・リースマン、『孤独な群衆』、加藤秀俊訳、みすず書房、一九六四年 カール・マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』、村田陽一訳、大月国民文庫、一九七一年 ジュル・ベルトゥ=アルフォンス・セシュ、『ボードレールの生涯』、斎藤磯雄訳、立風書房、一九七二年 ヴァルター・ベンヤミン、『ヴァルター・ベンヤミン著作集』第6巻、川村二郎・野村収訳、晶文社、一九七五年 ヴァルター・ベンヤミン、『パサージュ論2 ボードレールのパリ』、今村仁司他訳、岩波書店 、一九九六年 ジャン=ポール・サルトル、『サルトル全集』第16巻、佐藤朔訳、人文書院、一九七六年 ジョルジュ・プーレ、『炸裂する詩 あるいはボードレール/ランボー』、池田正年他訳、朝日出版社、一九八一年  フランツ・カフカ、『カフカ短編集』、池内紀訳、岩波文庫、一九八七年 フランツ・カフカ、『カフカ寓話集』、池内紀訳、岩波文庫、一九九八年 エドガー・アラン・ポー/ナサニエル・ホーソン、『河出世界文学全集』第5巻、松村達雄他訳、河出書房新社、一九八九年 ジョン・K・ガルブレイス、『ゆたかな社会』、鈴木哲太郎訳、岩波同時代ライブラリー、一九九〇年 J・A・ヒドルストン、『ボードレールと「パリの憂愁」』、山田兼士訳、沖積舎、一九九一年 フリードリヒ・ニーチェ、『ニーチェ全集』第9・10巻、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫、一九九二年 マルセル・レイモン、『ボードレールからシュールレアリスムまで 新装改版』、平井照敏訳、思潮社、一九九五年 バーバラ・ジョンソン、『詩的言語の脱構築 第二ボードレール革命』、土田知則訳、水声社、一九九七.年 アンリ・トロワイヤ、『ボードレール伝』、沓掛良彦訳、水声社、二〇〇二年 クロード・ピショワ=ジャン・ジーグレル、『シャルル・ボードレール』、渡辺邦彦訳、作品社、二〇〇三年 |